【公式】東高津宮

- higashikouzu -

歴史

ご祭神

東高津南之町時代
  • 仁徳天皇(にんとくてんのう)
  • 磐之姫命(いわのひめのみこと)

~由緒 略記~

東髙津宮は東高津南之町字野中にあり、仁徳天皇及び磐之姫命を祀れり。創建の年月・沿革等は詳らかならざれども、もと仁徳天皇社と號せしを、明治維新後今の社名に改めしといふ。俗に元高津と呼べり。明治五年村社に列し、大正二年十月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は弐百七拾四坪を有し、本殿のほかに拜殿・客殿・社務所・納屋等を存す。氏地は東髙津南之町・同北之町・上本町五丁目・同六丁目・同七丁目・小橋西之町の一部・南区天王寺石ヶ辻町
にして、夏祭は七月九日・秋祭は十一月九日に行はる。(大阪府全史)

仁徳天皇  摂州東成郡東高津村鎮座 庄屋 和気源祐
当社神事祭礼外吉例毎従往古神主此友田家より相勤来申候  (八王子神社所蔵文書 大阪市
史史料第六十九輯)

[境内神社]
一、 多賀神社 祭神 伊邪那岐大神 伊邪那美大神
一、 稲荷神社 祭神 宇賀御魂神
一、 八幡神社 祭神 應神天皇
一、 由緒不詳
 明治四年難波寺(当時隣接)ヨリ分離ノ際一社ニ合祀シ磐船稲荷大神ト称ス

東髙津宮は「大阪市歌」に「髙津の宮の昔より」と歌われております浪速髙津の宮(たかつのみや)に都を営まれ、大阪発展の基を築かれた第十六代仁徳天皇と磐之姫皇后をお祀りしております。

[日本書紀]によれば仁徳天皇は都から外をご覧になると、かまどを炊く煙が見えませんでした。都に近い処でさえ、民は食事を作る事も出来ないのか、と三年間課役を免除され、自らも倹約に努められました。三年後、今度は多くの煙が見え、「これで私も豊かになった」と仰ると皇后が「宮殿も荒れ放題なのに何が豊かなのですか」と不審がると「民が豊かになる事が私が豊かになる事だ」とお答えになったとあります。

当宮の創建、沿革等は古文書が散逸した為に明確ではありませんが古地図に「仁徳天皇大宮跡平野社」と記されているように往古は「平野社」或は「仁徳天皇社」と称されていたようです。明治維新後、現在の「東髙津宮」と改められ、明治四年(一八七一)村社に列格、大正二年(一九一三)には神饌幣帛供進社に指定せられました。

当時の鎮座地は「東高津南之町」であり現在の近畿日本鉄道上本町駅七~九番ホームの当りでした。一方、近代化、都市化の波は嘗て閑静な地であった当地にも押し寄せ、大正三年(一九一四)大阪電気軌道(現在の近鉄)上本町駅が完成。上本町、奈良間の営業を開始しました。

当初、駅は上六交差点の突きあたりに有り、短い発着線が二本あったのみだったそうです。その後、千日前通りの東への延長に伴い大正十五年(一九二六)私鉄では始めてのターミナルビルを建設して現在の位置に移転しました。その後昭和七年(一九三二)駅の拡張工事の為、当宮も移転を余儀なくされ、現在の鎮座地(当時東高津北之町)に遷座致しました。

脈々と続く東高津の歴史

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